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数日振りに朝からきれいに晴れ、午後には光線がまっすぐ部屋に差し込んだ。寒くはないが、季節はすっかり取って代わった。
明るくなった室内で、壁に貼ったタイポグラフのサンプルが目に付いた。こんなに褪色してたっけ、と思った。
すべきことは、探す必要もないほどある。そんなときだからこそ、隅の埃や室内の配置が気になる。悪い癖だと思う。この部屋は、真冬になると壁が結露する。先の冬、棚の裏を見落としていろいろ酷い目に遭った。それ以来、壁との隙間や空気の通りには気を遣ってきたつもりだが、これからまた徐々に寒くなる中、本当に大丈夫だろうか。
しかし、衣装ケースの裏を覗いていたとき、突如、私は何か別の感覚に支配された。なにやってんだ、おれ。そうするともう、視線の先の壁の隙間は、ただの暗い影だった。
冬のことは考えないことにした。冬の前にこの部屋から出て行けたら良いと思った。明日からまた仕事が始まる。
Oct. 1. Wed.
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(略)
昔の職場で一緒だったおばさんと、帰路を歩きながら話したことをよく思い出す。「友達は大事にせんといけんのよ」 私はそのとき、そうだ、そうだと、首肯したことも思い出す。
(略)
これはきっと、ある一例に過ぎないだろう。私が精算したと思い込んでいる関係は、今も用心深い周到さで私に絡みついている。逃げ切ることができない。
愚かな私は、こうした勘違いを重ねて、一度きりの人生を暗く狭く脚色している。
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晩、日頃から仲良くしてもらっている娘っ子に電話をかけてみたが、つながらない。電波か電池か電源か。こんなもんだ。
コーヒーをドリップしたら、非常に上手く淹れることができた。グラスの底まで透ける澄んだ褐色に心が躍った。
Oct. 18. Sat.
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三時過ぎの遅い昼休みを、満喫する確たるあては今日もなく、商店街は日曜の人出で私を疎外した。キムラヤで安価のパン少しとコロッケを買い、アトリエに顔を出した。
受験生もそうでない大人も、日曜の教室は賑やかだった。
画板に小さなメモ書きがたくさん貼られていた。誰の思い付きか、聞けば皆がそれぞれの勧める図書を書くように言われているそうだ。れもん、いほうじん、ばたいゆ、そんな単語が浮かんだ。後日、書棚を一覧してから私もいくつか書いてみようかと思った。
休憩時間を少しオーバーしてアトリエを出た。強風にセミロングの青白いコートが旗めいて、非常に絵になる男だった。男は昔のことを考えていた。
学生時代から集めた中古ばかりの文庫本が 100 冊ほど。現時点で読んだのは約半数。知性への憧れから本を読もうと思ったのは、確か十九歳。最初に読んだのは、いづれも借り物の「堕落論」と「異邦人」だった。
そんなことを思い出しながら職場のロックキーを打ち込んだが、階段を降りてくる社員氏と、おつかれさまですを交わしたところで、男は二十六歳の平成二十年に引き戻された。
(きれいにまとめすぎた。)
Oct. 19. Sun.
後日、アトリエで推選した本の一部
「異邦人」 アルベール・カミュ
「檸檬」 梶井 基次郎
「いのちの初夜」 北條 民雄
「1984 年」 ジョージ・オーウェル
「スローターハウス 5」 カート・ヴォネガット
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雨が降っている。
雨は不便で陰気だ。即ち、嫌いということはない。窓枠の景色に重なった水滴にフォーカスを移す一瞬の機微、回していた CD の終わりに気付く雨音。
夜更けに雨は強くなった。ボロの雨樋から、経路の途中で溢れた水が、小さな滝をつくって石の地面に落ちる音が聴こえる。
雨が降ると水たまりができる。水たまりは、道路設計者の意を汲むことなく、それでいて不自由な形をつくり、世界を鏡映す。
明日、雨脚がおとなしいようなら、カメラを持って仕事に出ようと思う。久しぶりにカラーフィルムをこめて、曇天も晴天も、色彩のない日はない。
Oct. 23. Thu.