平成 二十一年 弥生

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3 月 30 日。ブルーマンデーは午後から持ち直す。
 昼過ぎ、写真屋に行くと現像に出したフィルムはまだ届いていなかった。ATOMIC CAFE に入ると、「お昼ですか? 日替わりランチがありますよ」と手伝いのおねえさんが言うので、そうかも知れないと思い、日替わりランチとコーヒーを注文した。美味しかった。二時間ほど粘って出たあと、再び写真屋に行くと現像に出したフィルムは届いていた。店のおばちゃんと少し話をして、代金を払って帰った。「小野さんの部屋は、いつもピシっと片付いているんだろうねえ」
 西日が射す六畳のワンルームで、モノクロのフィルムを眺めた。近所。私の育った町。メリハリの効いた良いネガだと思った。


***


2 月 25 日。自宅にネットが開通したと、携帯電話に Y からのメールが届いた。ネットのメールアドレスを貼付して返信した。
 2 月 26 日。メールアカウントを作成してみたと、ネット宛に届いた。私が前日に貼付したものと同じ、Gmail のアカウントだった。手前味噌ながら此処の URL などを貼付、何かおもしろいものがあったらまた送ります、と返信。
 2 月 28 日。久しぶりに晴れた週末。Yahoo によれば東京も晴れていたようなので、散歩でもしたら気持ちいいんじゃないかと、携帯宛にメールを送信。それを読んだかどうかわからない。
 3 月 6 日。東京は雨の予報。しばらく沙汰がなく、具合がよくないのだろうと思った。さしあたり読んでくれればと思い、天候、春分も近く日が長くなった、三寒四温なんで風邪にお気を付けなどと送信。それを読んだかどうか。読んでいない。
 3 月 8 日。夜、携帯にメール着信。着信音は猫の鳴き声で、いつもびっくりする。鳴らすのはいつもだいたい決まった人間で、近頃は頻度も少ない。Y かなと思ったが違った。 Y の名前のあとに“永眠”と書いてあるのを見た。3 月 2 日に亡くなったそうだ。伝聞。


Y は私と同じ昭和 56 年の生まれで、大学の同期生だった。
 始めの二年間は特別な話をした記憶がない。三年次の課題制作で同じチームに組み入れられたときに初めて、私は Y との接点を得た。
 Y の書く字はきれいだった。アイデア出しの走り書きでも整った字をしれっと書いた。訊くと硬筆を習っていたという。私もせめて丁寧に、人に見せられる字を書けるようになろうと思った。PILOT のボールペンに換えた。私は Y のことが好きだった。 Y は私に友達でいようと言った。そういうものだ。
 以後も交信を積み重ねて、私と Y は友達だった。Y は困難を打ち明けた。私は迷いを晒した。それを互いに補った。
 どうしてそんなに親切なの?と訊かれたことがある。そういう仕様なんだよ、と答えた。嘘はたくさんついた。


3 月 8 日。届いたメールを読んでいた。
 心拍が上がって気分は悪かったが、取り乱すでもなく、涙も出ない。Y のことを考えようと思ったが、できなかった。深い意識が拒絶しているようだった。顔も浮かばなかった。訃報を何度も読み返したり、ネットをうろついたりしてみた。どうにもだめだった。出力したかった。
 話のできる相手は限られるように思えた。結局、少し前まで付き合っていた娘っ子に電話をかけた。彼女は Y を知らないが、私は彼女とのことを Y に相談した。それで付き合うことにしたんだ。そうだった。
 私はつい数時間前に知らされたばかりの出来事を彼女に喋るうちに、思考が整理されてしまい、もう Y がどこにも居ないことをクリアーに理解してしまった。私は電話口で言葉に詰まって、泣いた。


***


私が東京を出る直前の平成 18 年 2 月 21 日、目黒で Y と会った。庭園美術館で抽象画を観た。駅の近くの喫茶店で話をした。
 私はブレンドコーヒーを、Y は? 憶えていないな。それが Y と会った最後だ。


「あ、死んじゃったんだ」という認識が、生活のなんでもない隙間にふと湧いてくる。それは思界の隅々を席巻して、すぐに去って行く。相変わらず Y のことは頭の中にうまく結ばない。暖かくなった。


Mar. 31. Tue. 2009


Y について書いたことはあくまで私の理解の限りであり、本当はどうだったかなどわからない。
 ふつう、こんな言割り書きなどしないけれども、敢えて書くのはつまり、誤解があったとしても、もはや Y はそれを訂正することも否定することもできないからだ。

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imitated records or false memories

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