平成 二十三年 霜月

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数日来ぐっと冷えこんで冬らしくなった風呂場に、なめくじの姿はもうなかった。バスタブのへりにはイエ蚊が一匹停まっていたが、この寒さで身動きがとれないのか、飛んで逃げるでもなくじっとしていた。
 流してしまおうと、熱湯のシャワーを浴びせてみると、実に上手く湯の雨を避けて逃げてみせた。その飛跡をトレスするようにシャワーを動かすうちに、私は太宰治の短編にあった一節を思い出していた。「秋まで生き残されている蚊を哀蚊と言うのじゃ。蚊燻しは焚かぬもの。不憫の故にな」


私は不憫の故、熱湯を浴びせることができなくなった。哀蚊はまだ飛んでいた。
 誰の血を吸うことも産卵することもできず、明朝の冷え込みの中で死んでくれたらと思った。


Nov. 22, Tue.

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その昔におつき合いをしていた娘から封書が届いていた。“旧姓”という文字が見えて思わず封筒をひっくり返して伏せてしまった。


彼女は三つ年下で、出逢ったときはお互い学生だった。子供っぽい愉快な娘だと思った。料理でも頭の回転でもおれの方が三年分は上手だったようで、よく悔しがっていた。「いつかぎゃふんと言わせてよ。期待してる」などとからかって悔しがらせもした。
 仕事に就けないまま、暮らしていたアパートを取壊しで退去せねばならなくなり、彼女を置いて実家の岡山へ帰った。次の黄金週間までに東京へ戻るという約束だった。
 五年以上も昔の話だ。約束を守れなかったおれは今も岡山でのたくっている。彼女は良い人を見つけて一緒になったという。手紙によると、だいぶ前に入籍していたらしい。青いインクで書いてあった。


近年もたびたびやりとりしていたけれど、全く気付かなかった。そうなんだ、おれが何も進歩しない間に彼女はいつの間にかきちんと大人になっていて、いつかのリクエストに応えてくれたわけだ。ぎゃふん!
 一本取られたよ。もう試合を組むことはないからきみの勝ちだね。メダルをあげる。どうか、お幸せに。


Nov. 24, Thu.

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