平成 二十二年 葉月

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少し前に手掛けた仕事のクライアントの Y 先生と、立ち寄った洋食屋でばったり会った。
 最初の打ち合せの折以来だった。その最初、名刺を交換したときから私は Y 先生のことを、ある興味を持って観察したように思う。案件が片付いたら雑談のうちに尋ねてみようと思っていたが、納品のタイミングで先生が体調を崩されたのでそのまま会談は流れてしまった。また仕事の依頼があるだろうか。あればそのときに……と思っていた。
 先生は私の仕事にとても満足してくれていたようだった。後ろから「先生 ?」と声を掛けた私に気付くと、まず無言の笑顔で握手を求められた。もちろん応じた。
 隣の席に座り、仕事に関するお礼やら何やら雑談を交わし、一旦落ち着いたところで切り出した。


「この近所に長くお住まいでしたら、娘さんはいらっしゃいませんか ? というのも、僕の中学の部活の同級生に先生と同じ名字の子がいまして。珍しい名字なのでもしかしたらと思って。陸上競技で、同じ障害走種目で……」
「ああ、それはウチの娘ですね」先生はそう言って、次には私の知った名前を出した。
 予想はできていたのに、私は何故だかしまった!と感じた。その感情をどうにか自然な驚きの中に混ぜ込み、世の中は狭いねと互いに頷き合いながら昔話を披露して盛り上がってみせた。
 今はどうしているか、それを尋ねるには腰が引けた。先生の言葉を拾い集めて、彼女の現在の様子を少し知った。


お勘定を持ってくれた先生にお礼を言って店を出たあと、帰路の夜道でずっと、その狭い世の中について考えていた。
 K子さんは中学生の頃の私の憧れだった。私は思春期を患っていた。競技以外の会話など持ちようがなかった。引退したあとの冬は寒かった。私は彼女の志望校を見誤り、進路の貼り出し掲示の前で顔をひきつらせたかも知れない。高校へ進んでも陸上競技を続けた。試合で会えるかもしれないと思った。いくつかの競技会を経て、彼女がもうトラックにもフィールドにもいないことが判った。そのうち考えるのを止めた。
 思いもよらないルートからリンクした昔の思い出は、苦さよりも、それを包含した甘さを感じさせた。
 しかし歩いた果て、人通りのなくなった住宅街の路地にさしかかったとき、「ぁあ〜」という呻きが自然と漏れた。
 アイム 呻吟 イン ザ レイン……


Aug. 11. Wed.(岡山市 雨降らず)

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